日々のつれづれ

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『エゴン・シーレ魂の裸像』

先日アップした『接吻』究極の愛のブログの中でエゴン・シーレについて少し触れました。
過激な表現は避けマイルドな表現でブログに書く事にします。
いずれにしても、「クリムト」「エゴン・シーレ」について、歴史家でもジャーナリスト
でもない凡夫の言う事、戯言ぐらいにお考え下さい。m(__)m


「エゴン・シーレ魂の裸像」


真実に眼を背け、後ろめたさに現実を認めない事に
人間の持つ哀しい性を感じる。


美しいとはなんなのか。
清らかとは何を意味するのか。


そんな疑問に答えてくれる画家たちが居た。



それは、「クリムト」「エゴン・シーレ」


クリムトはシーレの才能を誰よりも認めていた人物であった。


シーレもクリムトのことを特別な存在として感じていたのは、
疑う余地のない事だろう。


クリムトとシーレに共通するテーマは「生と死」、そして「エロス」


そんなシーレは、
クリムトの「接吻」を意識して描いた絵画に「枢機卿と尼僧」がある。


クリムトは、
生と死そしてエロスに対して「死の甘美」「妖艶」で表現した。


シーレは、
「恐れと不安」「規範との決別」と言う主題で答えを出している。


果たして、
どちらが人間の感情として本能に忠実なのか。


二人の主人公は、
どちらも放蕩で現在の尺度で測ったとしても、
常識の範囲を遙かに逸脱した人物で有った事は疑い無い事実である。


ただ、二人とも自らの信条に忠実であった事は、
疑う余地のない事であると思える。



「エゴン・シーレ」の言葉


彼は創造者でなければならない。
断固として過去のものや旧来のものを頼りとせず、
独自に彼が信じる基礎を自分自身の内部に持っていなければならない。


− 激しく炎をあげて燃え戦いを求める。
  心臓の痙攣。吟味すること。
  そして狂ったように歓びに打ち震える。


− 感覚を失って
  ただ考えるだけの苦悩には意味がない。


もしぼくが
自分自身を本当に見ようとするのなら、
直視せねばならぬだろう。


己が何を求めているか、
何が自身の中で起っているかを知るだけでなく、
真に視る能力をぼくが備えているかを自ら知ることに他ならない。


芸術家という言葉で呼ぼうとするのは、
肩書きや資格を持つ人間ではなく、
使命を負った人間のことである。


あらゆる者は 生きながら死んでいる・・・。



※彼にとって、宗教も規範も、
※翼をはためかす障害であったのではなかろうか。
※タブーこそ生きる源泉であったかのように・・・。



どんな外套でぼくらの身を覆うとしても、
それは結局、虚無を覆うことにしかならない。


なぜならそのような外被は、
身体の各器官と絡み合う欲望を持つかわりに、
自身をただ隠すことにしかならないのだから・・・。


※厭世的な響きの中に隠された真実を
※求めて止まない狂気が潜んでいる気がする。



※個人的な意見ですが、


芸術作品は作者の精神を開示し、
創作という行為が持つ特質に由来するのであろう。


つまり、
潜在的に含まれる価値観は、
創造主の思想や感性を表現することに尽きる。


すなわち、
自我に在る真実を映し出し、
鏡のような存在であることを訴求するのであろう。



今日も安酒に背中を押され、意味不明の書き込みをする。
混沌とした文に理性の一欠けらも感じないであろうに。
性懲りもなくこんな言葉を綴っている。


禍々しい表現に目を背けるなかれ。 これぞ人間、これぞ裸の魂の叫び



※エゴン・シーレ
オーストリアの画家。(1890年6月12日 - 1918年10月31日没)
前著のクリムトは彼に全面的な援助を惜しまなかった。


※※シーレの言葉については、以下を参照させて頂きました。
エゴン・シーレ魂の裸像 (編者)黒井千次


※※※エゴン・シーレについて、独断的な言葉で括っているように思われる
方もいらっしゃると思います。これは、あくまで個人的な意見で有り創作で
有ることをご承知頂けると幸いです。浅智お許しください。


エゴン・シーレ「枢機卿と尼僧」


クリムト「接吻」


長々と失礼しました。       
                       なゆた