日々のつれづれ

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『鎮静剤』マリー・ローランサン

今日も、外は危険なぐらいの炎天下です。
毎日、こんな事ばかりを話題にするのも疲れたので、たまには教養講座?(笑)


私の好きな画家を紹介します。
「マリー・ローランサン」は、日本で最も人気の高い女性前衛芸術家だと言われています。



マリー・ローランサン(Marie Laurencin、1883年~1956年)は、20世紀前半の芸術の都パリで活動した稀有な女性画家です。


ピカソや同時代の前衛画家たちに影響を受けながらも、淡く洗練された色彩で美しい女性の肖像画を多く描き、独自の作風を確立しました。


マリーにとって重要なモチーフで、生涯にわたって繰り返し描いたのが「はかなげな女性」です。


マリーは、花を持ったり真珠の装飾や首飾りを身に着けたりした未成熟ではかなげな女性を繰り返し描きました。


華やかでありながら憂いのある独特の世界観がマリーの絵画の特徴です。


※※


「出生と恋の遍歴」


マリー・ローランサンは1883年にパリ10区で私生児として生まれた(ただし、資料によっては1885年生まれとなっている)。
父はのちに代議士となったアルフレッド・トゥーレだが、マリーは彼が父親だということを長い間知らなかった。母はポーリーヌ・メラニー・ローランサン。パリ9区のリセ・ラマルティーヌ に学び、画家を志し、アカデミー・アンベールで絵を勉強する。


ここでジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けた。1907年にサロン・ド・アンデパンダンに初出展。このころ、ブラックを介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)という安アトリエで、パブロ・ピカソや詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールと知り合った。


アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちた。
だが1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまった。
その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作「ミラボー橋」であるという。 


1912年に開いた最初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱する。
ローランサンが30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになった。


1914年に31歳でドイツ人男爵(オットー・フォン・ベッチェン)と結婚。
これによりドイツ国籍となったため、同年に第一次世界大戦が始まると、はじめマドリッド、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされた。
戦後、1920年に離婚して単身パリに戻る。 


パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上狂乱の時代(Les Années Folles)と称された1920年代にあって、時代を体現した売れっ子画家となった。
パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となったという。


また、舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功した。関わったものとしては、フランシス・プーランクのバレエ『牝鹿』や、オペラ=コミック座の『娘たちは何を夢みる』、コメディ・フランセーズ、シャンゼリゼ劇場で上演されたローラン・プティのバレエなどが知られている。 


第二次世界大戦の際はフランスを占領したドイツ軍によって自宅を接収されるといった苦労もありながらも、創作活動を続けた。
1954年、シュザンヌ・モローを正式に養女とする。1956年にパリにて心臓発作により死去した。72歳没。 離婚後はバイセクシャルでもあった。


彼女は、女性画家・彫刻家 詩人としても有名です。


パステルカラーの美しい女性達を思い出す。



マリー・ローランサン「キス」(1927年)



※※※



詩人でもある彼女の詩もご紹介します。
「はかなげな女性」をモチーフに描く、彼女の心の内に何が有ったのか・・・。
垣間見えるような詩です。



『鎮静剤』


退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。


悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。


不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。


病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。


捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。


よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。


追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。


死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。


                          なゆた